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石の絵を描く 

最近ハマっているのが、色鉛筆で石を描くこと。

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↑結晶片岩が完全に角が取れていい形になったもの。これは鉛筆のみ。

石はまったく動かない。
腐ったり枯れたりもしない。
絵を描くのにこんなに適した題材はなかろう。

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↑これは片麻岩? 石英質の中にほんのりオレンジや緑。

虫眼鏡を使ってどこまでも細部を観察する。
それを絵として再現しようと頑張る。
無心になる瞬間がある。
とても充実したいい時間になる。

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↑赤茶色の石に石英が貫入したもの。

それにしても、
石をモチーフにして描いているという画家とか作品をあまり知らない。
こんないい素材をなんでみんな描かないのかなぁ、としばし考え、
絵よりも変わらないでずっとそのままでいるものを描いても、おもしろくもなんともないのかもしれないなぁ、と思い至る。

それでも私は石を描き続けてみようと思う。
この前、三菱鉛筆のユニカラー100色セットも買った。
どんな使い心地か、たのしみだ。



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感じる視線 

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「焼き物、けっこう好きですヨ。」

そう言えるようになったのは、つい最近のこと。
数年前まで、本当のところあまり興味が持てなかった。
何がいいのやら、それともよくないのやら、
自分の中に指針になるようなものがなかったからだ。

だけどこのごろはなんとなく、自分の中の
「これは好きかなぁ」という方向性がつかめてきたように思う。
で、そうなると逆に、なんで今まで興味がなかったのだろうかと、
そっちのほうが不思議になってきた。

自分の心のうちに分け入ってみよう。

“器に興味があるっていうと、なんかおしゃれで洗練されてるイメージ。
 でも逆にそれってなんか敷居が高いよなぁ。
 雑誌とか本とかで知識人が訳知り顔に語ってるのもなんだかなぁ。
 そこに乗っかって自分も好き好き言ってたら逆にダサいよなぁ。
 金も掛かりそうだし、今は様子を見とこ。”

多分こういう心理だったんじゃないかと思う。
なんとも打算的で実に貧乏くさい考えだ。
われながらしっくり来る。

そんな過去のしみったれた自分も愛しつつ。
流行りや先入観にとらわれないよう気をつけながら。
これから少しずつ、焦らずに“焼き物愛”を育んでいきたいと思います。


ところでこの前も、南あわじ市の雑貨屋『そらみどう』さんで、
お気に入りの焼き物に出会った。
コーヒーカップだ。
冒頭に貼ったけどもう一度写真載っけます。

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スタイルがいい。
色も風合いもいい。
全体的に配慮が行き届いていて、なおかつおおらかな雰囲気もある。
これは好きだなぁ。

買って帰って、さっそくコーヒーを淹れてみた。
持ち手が少し下がってるのが持ちにくくてそこはちょっと残念だったけど、
器の形が手によく馴染んで、お気に入りになりそうな予感。
いい買い物だった。

ところがそのカップを何日か使っていると、
いつもだれかに見られているような気分になることに気が付いた。

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はて。室内には誰もいない。
ん? いや、待てよ。

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もしや。
こ、これはッ……!

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女の子が、横目でこっち見てる!!

とんでもないものを手に入れてしまった。
もちろんこれは偶然の産物だろう。
だからこそ、とてもいい。

しかもこのシミ、漫画の神様 手塚治虫タッチに見えるぞッ!
書いてみた。
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リボンの騎士あたりの画風?
ありがたや〜。

これに気付いてからというもの、
このコーヒーカップを使うたび、ひとりニヤニヤしてしまう。
ずっと大事にしていきたい。


水仙の香り 

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玄関の一輪挿しに、水仙を生けています。
うちの庭に咲いていたものを一本切ってきました。

この写真を撮ったときはまだ閉じていた2つの蕾も、今は完全に開いています。
帰宅すると玄関に甘やかな香りがして、
それを嗅ぐたび、小生の心は年甲斐もなく新鮮に華やぐのです。

それでも何度も出入りしてるといい加減慣れるだろうと思うんですが、
本当にいつもふっと心がゆるみます。
オッサンの心を癒やす魅惑の香り。
洋名“ナルキッソス”は伊達じゃありませんね。

洲本の山沿いだとけっこうそこらじゅうに咲いていて、
そんなにありがたみも感じないものですが、
玄関にあると、それはいいものだなと思いました。


正月の街を歩く 

正月の街はとても静かで清々しい。
妻の実家近くのふだん騒がしい工業地区も、正月はゴーストタウン化。
そこを我が物顔で歩くのがとても気持ちいい。

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動くもののない、音もない、絵のような眼前の風景。
早朝の風が頬を刺すように冷たい。

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人の気配もまったくない。

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車も一台も通らない。
道の真ん中でカメラを構えてもぜんぜん平気。

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道ばたのダストボックスに怖い絵。
このキャラなんやろ。

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激安の自販機。
30円とかマジか。
最安は怖かったので50円の缶コーヒーにチャレンジ。
ふつうに賞味期限内のあったかいのが買えました。

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モダンな感覚で切り取った1枚。(誰も言ってくれないので自分で言う)
石元泰博にも似た透徹した眼差しだ。(自分で言う)

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そして大好きなガスタンク。
昇降階段が最高。
もう少し寄った写真を見てみよう。
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いいでしょう、いいんですよ。
いつかあそこを昇降してみたいなぁ。

誰にも会わない、街あるき。
最高でした。


キログラムの定義が変わると知って考えたこと 

質量の単位「キログラム」の定義が変更されるとニュースで知った。

おっ?
日々体重計の数字を気にする婦女子や、肉屋のご主人にとって大ニュース!
てなことではないらしい。
変わると言っても基準が人工物から物理定数にとってかわるだけで、
もし差があるとしても1kgあたり“指紋1つ分(なんだそれ)”あるかないかというぐらいの誤差だとか。
はっきり言って日々の生活で微塵も気にならないレベルだ。
私たちにはまったく関係のない次元のニュースだった。残念。

では、まったく関係ないから興味もないのかというと、そうでもない。
むしろ興味津々だ。
これもつい最近のニュースで、NASAが探査機を火星に着陸成功させたというトピックがあったけど、そんな遠い惑星での出来事と比べれば、まだ身近に感じるというもの。

人類史を振り返ってみれば、計量するということは昔から大きな懸念事項のひとつだった。
たとえば秦の始皇帝が中国統一に際し特に重要視したことは、貨幣・文字に並び度量衡だったと言われているし、古代エジプトにおいては、死者が天国に行けるかどうかは秤で決められると考えられていた。
日本で言えば、お米を量るマスを庄屋に誤魔化された百姓さんが、かわいい我が娘を身売りに出してしまうなんてこともあったみたい(時代劇で見た話だけど)。そんな昔の不正行為を思うと胸が詰まるし、現代を生きる私たちにしてみたって計量の悩みはけして他人事ではない。ガソリンスタンドの請求額にびっくりしちゃって、給油メーターについつい疑惑の目を向けてしまったりする……そんなナイーヴな心を持ったご同輩も少なくないのではあるまいか。
これ以上こまごまと例を出さなくても、私たち小市民からしてみれば公明正大な計量がどれだけ大事なことか、賢明な読者の方々には自明のことだろう。
だから重さの定義がさらに厳密に、だれにも開かれた形で定義し直されることは、日常生活レベルで実感できるかどうかにかかわりなく、人類にとって大いに寿ぐべきニュースなのである。

とはいえ、やっぱりさみしい気持ちもある。
新しい基準は『プランク定数』という物理定数なんだけど、
これまでは、世界に1つしかない分銅が基準だった。
それは耐食性にすぐれた白金イリジウム合金でつくられ、パリにある国際度量衡局で、二重真空容器の中に入れられ厳重に保管されていた。
……なんだか、かっこいい。
『国際度量衡局』
『二重真空容器』
『白金イリジウム合金の分銅』
単語1つ1つ読むだけで、わーっとイメージが広がるっていうか。
そのうち大怪盗が盗み出しそうな気配がプンプンする。
『今夜、世界に1つしかない白金イリジウム合金の分銅をいただきに参上! ルパン』
『わっはっは、国際度量衡局周辺の警備は万全ですよ』
『ナニっ! 二重真空容器の中から分銅が消えただとォ!?』

これが物理定数だと、なかなかそうはいかない。
「くそぉ、一足遅かったか! ルパンめ、まんまと盗みおって」
「いえ、刑事さん。あの方はなんにもとらなかったわ」
「いや、あいつはとんでもないものを盗んでいきました」
「……」
「プランク定数です」
〈完〉

たとえ懐古厨とディスられても、国際度量衡局の方々には、白金イリジウム合金の分銅をずっと未来まで保管しておいてもらいたいと、切に願うばかりだ。